2012年4月10日火曜日

信仰と人命尊重


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9、創世記9(イサクの奉献)―――――――――人身供儀信仰と人命尊重

あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。(創世22:17

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ゲラル滞在(2021)−寄留の苦労

ソドムの滅亡事件の後、アブラハムはヘブロンからネゲブ地方に移る途中の、ゲラルに滞在した時のことです。土地の支配者アビメレク王との間に、妻サラを巡って、かってのエジプト王と同じ、「妻提供事件」があったことが記されています(20)
 このアビメレク王とは、飲料水の井戸の紛争解決にともない、友好関係を維持するために、契約を結んだとあります(212234)(次代のイサクの時も、このアビメレク王とはゲラルで全く同じような「妻提供事件」と「井戸紛争」を起しています(26)。恐らくイサクの方が原伝承なのでしょう、何れも、放牧・移動する寄留の民、イスラエル族の困難を物語っています)

イサクの誕生(21)

やがて、主の約束とおり、アブラハムの正妻サラにイサクが生れます(21)。そのため、サラの召し使いハガルが産んだ庶子イシュマエルは不要となり、母と共に、荒れ野に追い出されます。

しかし、主の御使いが臨み
21:17 神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。
21:18
立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」
と。
 大きな国民と預言されたこのイシュマエルが、後にイスラム教徒の始祖とされています。

イサクの奉献(22)

99歳で奇跡的に授けられた最愛の息子イサクを、焼け尽くす捧げ物としてささげるように、神からいわれます(222)。不可解な神の命令ですが、アブラハムは従います。

22:3 次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。
22:9
神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。
22:10
そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
22:11
そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、
22:12
御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

アブラハムが、まさに「刃物を取り、息子を屠ろうとした」その瞬間、御使いの中止命令が出て、代わりに雄羊が現れて、焼け尽くす生け贄となります。


ホロコーストで約強制収容所か

22:13 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。
すると、
22:15
主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。
22:16 御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、
22:17 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。
22:18 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

神は、このように、一人子さえ惜しまなかったアブラハムの信仰を嘉して、子孫の末長い繁栄を約束したという、旧約聖書の重大事件です(が、不思議なことにパウロは一言も触れていません※1)。

父親アブラハム、母親サラの気持ちは?

アブラハムは一体どのような気持ちで、イサクを捧げたのでしょうか。
息子のイサクから「焼き尽くす捧げ物にする子羊は何処にいるのですか」と聞かれた時、アブラハムは、「捧げ物の子羊はきっと神が備えて下さる228 と答えていますが、本当にそのように確信していたのでしょうか。

少しも疑わずにそう信じていたならば、これは如何にも非人間的なアブラハムではないでしょうか。神の命令は絶対だ、子供の犠牲は仕方ないと割り切っていた冷酷とも言える、親だったのでしょうか。神からは「自分の一人子である息子すら惜しまなかった2216b、と賞賛されています。

何故、最愛の息子イサクを犠牲として捧げなければならないのか。90歳の老齢にも関わらず、初子を授かった母親サラの悲嘆はどのようだったでしょうか。
 何故か?と、これらの疑問とその理由を、神に質問することも全く有りませんでした。
 絶対的に、神が「
捧げ物の子羊はきっと神が備えて下さる、22・8b」ことを信じているようにみえます。 イサクが死ぬことなどあり得ないと、確信していたようです。

アブラハムの信仰

新約聖書のヘブライ書では、1119アブラハムは、神が人を死の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。」。
 
イサクは死んでも、神は復活させてくれるに違いないと、アブラハムは確信していた、というのです。これが、アブラハムの全たき信仰とされています。 神は、決して約束を破らない。イサクを殺しても、主は、必ず生かして下さる。という物凄い確信です。疑問の陰すらない、一見楽天的とも思われる信仰の姿です。本当の信仰とは、このようなものであるということの物語が、この「イサクの奉献」とされています(※1 疑いを持たずに、生死をふくめて、すべてを神にお任せすること、いわば「他力本願」の姿です。

悠久の大義に生きる信念

つい50年前、我が国でも、死を少しも恐れない人々がいました。天皇のため、国のために、喜んで死ぬ若者が沢山いました。悠久の大義に生きるんだ、即ち「死んで復活する」という信仰をもっていたのです。そして、黙って息子を送り出す母親は皇国の母と呼ばれ、尊ばれました。最愛の息子を差し出すイサクの奉献に似た出征状況が全国で見られたのです。このような信仰と、アブラハムの信仰とどこが どう違うのでしょうか。

人身供儀の風習と、その信仰


聖書の言葉の意味を見つけるためにどのように

そもそも、自分の最愛の息子や娘を犠牲として、神に捧げることは、古くからイスラエルでは行われていたことであります(※2、初子の奉献)。士師記1130に、士師エフタは娘を自分の誓願の成就のために、供儀として捧げたという悲しい物語があります。

何れの原始宗教でも、人身供儀の風習があったことは、広く認められています。日本でも、人身御供の民話があり、凄まじいものとしてはインカ帝国の太陽神への人身屠殺供儀が有名です。人間が最も大切にしているものを神に捧げて、絶対服従の意思表示を行い、神と和解しようとするのは、ごく自然な素朴な信仰告白の宗教的態度なのでしょう。

当時イスラエルでも禁じられてはいたが、モレクの神への信仰が流行しており、人々の尊崇を集めていて、王でさえ、自分の息子を火の中を通らせたと度々記録されています(※3)。

また、預言者エリシャの時代(丁度この頃のエロヒストがイサク奉献の記事を書いたといわれる)イスラエルに反旗を翻したモアブ国が、イスラエルとエドムの連合軍の攻撃を受け、壊滅寸前の危機を迎えた。その時、イスラエル・エドム包囲軍の目の前で、モアブ国王は自分の愛児を城壁の上で神の助けを願い、焼き尽くす犠牲として捧げた。このモアブの王の息子の焼身事件は、イスラエルの民にとってかなり衝撃的なことであったに違いありません。
 
自分たちが禁じている人身祭儀を目の前で行った。壮絶なまでの焼身祭儀をおこなった。このモアブ王の気迫に呑まれて、イスラエル軍はもう一息で勝つところで、戦意を喪失して逃げ帰ったと、記録されています(列王下3・2627※4
 
このように、外敵、飢饉、など国家非常の時には、王は自分の最愛の息子をさえ犠牲として捧げるべきだ。ヤーウエの神の怒りを解くために、息子を生け贄に捧げるべきだ、という考えは、当然あったと思われます(※5)。

しかしまた、この様な考えに対して、我々のヤーウエの神は、そのような人身犠牲は望んでいないと言う人々(預言者やエロヒスト)の反論も当然ありました。ミカ書6:7にわが咎を償うために長子を/自分の罪のために胎の実をささげるべきか。※6とあります。

殉死の美化と宗教の恐ろしさ

信仰の深さは、神への服従の程度で推し量ることが出来ます。神への服従の程度は自己犠牲の大きさによって判りますから、当然自己犠牲の苦痛が大きければ大きいほど、信仰深いと言うことになります。このアブラハムの自己犠牲「イサク奉献」がアブラハムの信仰の偉大さを示しているように。

ですから、この信仰の深さを示す焼身犠牲という献身を、止めることは非常に困難なことだったと思います。

国のために死ぬのは、無駄だと言うのが難しいのと同じです。殉死を名誉とする気風があり(※7)、嬉々として死に赴き、喜んで特攻隊で出撃した若者に対して、犬死だと当時は言えなったと同じです。(勿論、この行為に疑問を持つ人々もいたが、その声は幽かであり聞こえてこない。不忠者と言われるので母親は黙して語らず。)

このように自分の息子、娘を犠牲として神に捧げることは、異教でもやっているし、我々もついこの間まではやって来たのです。どんな宗教も本質的には同じ危険を持っています。

自分の命の軽視は、他人の命の軽視に

この考えを推し進めるとどういうことになるでしょうか。
自分の息子を焼き尽くす犠牲として死なせるのが大義のために必要であれば、神に逆らう異教徒を殺すことは正義であり、また(オウムの様に)サリンをばら撒いて無辜の人々を殺すことも大義のために許されることになります。人命は、信仰や大義の前では鴻毛のように軽くなるのです。ここが宗教の恐いところです。


強力な関係を持ってする方法

しかし、ヤーウェの神は、最終的には、子供の命に代わりに、雄羊を求めました。ヤーエの神は、人身供儀を喜ばれないということをこの「イサクの奉献」で明らかにしたのです。ここが、バールの神と決定的に違うところです。ヤーウエの神は絶対的な服従を求めてはいるが、それ以上に人の命のほうが重要なのだというのです。この旧約の本質を受け継いだのがイエスです(※9)

ですから、この「イサクの奉献」で、記者エロヒストが強く主張したいのは、アブラハムの深い信仰もさることながら、人身供儀を求める他の異教の神と違う、ヤーウエの神の憐れみ、愛ではなかったのではないでしょうか。アブラハムの信仰を称えるよりは(むしろ、アブラハムの盲従は批判さるべきかもしれない)、ヤーウェの神の慈悲に感謝すべきでしょう。

この物語には、替わりの動物を捧げることによって、(「初子の奉献儀礼※2のかわりに)初子のいのちを受け戻す行為を根拠づけようとする意図が、見られます。当時の人々の信仰意識の革命的変化を促す教育的意図があるように思えます。

すなわち、焼身祭儀をめぐる賛否両論の時代の背景の下で、このイサクの奉献物語はエロヒストにより、焼身供儀を否定するヤーウェの神として、ヤーウェ元資料に挿入されたのではないか。というのが私の[薮にらみ]です。

この思想を受け継いだ申命記作者は、ヨシヤ王の時代、徹底的な宗教革命「申命記改革」を行いこの悪習/焼身供儀を改めました。
 
王(ヨシヤ王)はベン・ヒノムの谷にあるトフェトを汚し、だれもモレクのために自分の息子、娘に火の中を通らせることのないようにした。と、列下23:10にあります。そして禁止の律法に成文化したのが、申命記やレビ記にある掟(※8)だと思います。

サラの死と埋葬(23)―土地の所有

ベエル・シェバに住んでいたアブラハムは(2219)、やがて妻サラの死を迎えます(23)。アブラハムは、ヘブロンのヘト人所有の畑を、銀4百シケルで買い取り、サラをマクベラの洞穴に葬ります。やがて自分も葬られる(25110)ことになる、洞窟のあるこの畑は、イスラエルが始めて合法的に手に入れた記念すべき土地となります。イスラエルの民の、土地への渇望が見られるところです(旧約略解「7章、「契約と嗣業の土地」参照)

次回、24章からは、息子イサクの嫁取り物語に入ります。

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     1、「イサクの奉献」の解釈−犠牲を求める残酷な神に納得できない
例えばキェルケゴールは、このアブラハムの「イサクの奉献」は何度読んでも大変だ、とずっと思い続けた、といわれています。誰しも、納得できない何かがあるようです。
パウロも何故か、全くこの事件に触れていません。

     2、初子の奉献
「すべての初子を聖別してわたしに捧げよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ、家畜あれ、わたしのものである。」出エジプト13・2

     、焼身犠牲の風習
列王下216 彼(マナセ王)は自分の子に火の中を通らせ、占いやまじないを行い、口寄せや霊媒を用いるなど、主の目に悪とされることを数々行って主の怒りを招いた。」。列王下16章3、1717にも、ユダ王が、自分の子を火の中を通らせたとあり、など度々非難されています。


     4、エドム王、息子を焼く
列王下3・26モアブの王は戦いが自分の力の及ばないものになってきたのを見て、剣を携えた兵七百人を引き連れ、エドムの王に向かって突進しようとしたが、果たせなかった。3:27 そこで彼は、自分に代わって王となるはずの長男を連れて来て、城壁の上で焼き尽くすいけにえとしてささげた。イスラエルに対して激しい怒りが起こり、イスラエルはそこを引き揚げて自分の国に帰った。」

     、非常事態の犠牲
国家の存亡時には王たるリーダーは、自分の最愛の息子を天に捧げてまでも民族を救うべきだ(列王下3・27。モアブの王が息子を捧げて、イスラエルを破った)と、当時のエロヒストは主張したいので、E資料として挿入したという聖書学者の説もあります。

     6、ミカ書6:6〜8
「何をもって、わたしは主の御前に出で/いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として/当歳の子牛をもって御前に出るべきか。
6:7
主は喜ばれるだろうか/幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を/自分の罪のために胎の実をささげるべきか。
6:8 人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。」

     、犠牲の美化
靖国神社や江田島の旧海兵の記念館に展示されている軍神と言われる人々の遺品があり、今も或る人々にとっては神聖視されています。
 

     8、申命記1810では
「 あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、18:11 呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。」
レビ記1821では、「自分の子を一人たりとも火の中を通らせてモレク神に捧げ、あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。」とあるように、子供の人身供儀の風習は、異教の神の祭儀として厳しく禁止された。
 

     9、人命尊重が隣人愛
イエスは、隣人を自分のように愛しなさいマルコ1231 と言っています。またパウロも、愛の讃歌で「誇ろうとして我が身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」コリントT、133b、と言っています。隣人愛がキリスト教の特徴です。
キリストのため、友のためには、我が身を犠牲にすることが、最高の愛と教えられています(ヨハネ12:24)が、しかし自分の命を粗末に出来る人は、他人の命も何とも思わないものです。これが、私たち人間の弱さです。せめて、自分自身を臆病なくらい大切に出来れば、人の命も尊重できるのではないでしょうか。
イエスの教えは、「
隣人の命を、自分の命のように愛しなさい。」と読み取れます。ですから、卑怯と言われようが、何といわれようが、自分自身と人の命を何より大切にすることが、イエスの教えだと思いますが。

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